稀音家祐介インタビュー B
二度と二十代には戻りたくない

プロになられたのは、大学卒業されてすぐ?

 いや、大学在学中に温知会の末席で弾く機会があって、それがプロとしてのデビューかな。ただ稀音家の流儀を出たことがなかったから、よその流儀の人といっしょに弾いたことはなくて…。
 卒業した年に父が亡くなったんだよね。まだ僕は仕事もないし、母は専業主婦だし、さあ生活はどうなるんだろう、と。一時は三味線弾きにはなれないんじゃないかと思いました。家を手放そうかとも思ったけれど、母と相談して、とりあえずはなんとかなるし、完全に食えなくなってから考えよう、と。それまでは何とかがんばろうということになった。

 そうこうしているうちに、ある日、突然、国立劇場から電話がかかってきて、「○月○日に『第一回明日を担う新進の演奏会』というのがございまして、それに出演していただけないでしようか」と。曲目を聞いたら「秋の色種です」と。で、「立て三味線はどなたがお弾きになるんですか」「いえ、立て三味線が祐介さんなんです」。なんで僕が立て三味線なのと思って聞いたら、「三世今藤長十郎先生のご推薦で」と言うわけ。
 僕は長十郎先生に一度もお目にかかったこともなければお話したこともないし、「どうして長十郎先生のご推薦なんでしょうか」「それは私共ではわかりません」。

 しょうがないから先生のところに電話して、こういう電話があったけれど、「先生のご推薦というのは何かの間違いではないでしょうか」と言ったら「推薦したよ」と。どうして?と理由を聞いたら、ラジオで邦楽オーディションという番組があって、それに一年先輩の今藤郁子さんといっしょに演奏して合格したのね。それを先生が聞いていてくれたらしい。お前もなかなか良くやっていたから推薦した、と。

それはすごいですね。

 そんなわけで、今の今藤美治郎君と秋の色種をやったんですよ。そりゃあそんな晴れ舞台にね、駆け出しの若造が推薦してもらって、それも明日を担うなんて担い損なったらどうするんだと思いながら。会の前に、一度先生にみていただけませんかと言って、二人で行ってみていただきました。立派なお稽古場で、三味線立てて、もー死にそうだよね。一番下っ端が一番偉い人のところに行ってみてもらうわけだから。もう手は震えるわ汗は噴き出すわ大変だよね。まあ、命からがらみていただいて、そのときに長十郎先生が教えてくれた言葉が今も忘れられない。大変勉強になった。

その言葉というのは?

 今、君の演奏を聞いて、ここはああしたほうがいい、あそこはこうしたほうがいいんじゃないかといろいろ教えたよな、と。だけど例えば私が白だと教えたところを君のお師匠さんは黒だと言うかもしれない。またある人は赤だ、青だ、と必ずそういうことが出てくるんだ、と。そうすると君はこちらの顔を立てればあちらが立たず、きっと困ると思う。でも、それが勉強だ。俺も若い頃、四代目の佐吉師のところに習いに行くと、お前の三味線は唄を聞かない、もっと唄を聞いて三味線を弾けと言われる。今度勝太郎師のところに稽古に行くと、お前の三味線は唄聞いて付き合ってグタグタ弾いて何だ、唄ばっかり聞いて弾くんじゃねぇよ、江戸長唄はパキッとしてなくちゃ、お前のは全然なってない、と。こちらを立てればあちらが立たず、あちらを立てればこちらに怒られそうで身の細る思いをした。でも今考えてみると、そのときの苦労が今の今藤長十郎をつくったと思う。

 という話を僕は聞かされたわけ。そのときに、今だから思うけれど、当時の第一人者が駆け出しの下っ端にお説教することとしてこれぐらいふさわしいことはないな、と未だに忘れられない。今も、僕はそういうつもりで勉強しているし、何かの機会があれば若い人たちにそういう話をしたいと思っています。

演奏会はどうでした?

 で、まあ、演奏会やりました。そこに今藤政太郎師が聞きに来ていて、僕は知らなかったんだけど、後日、温知会に出ていたら、長十郎先生の脇三味線で来ていた政太郎師に、君、祐介君でしょ、と声をかけられた。この間の君の秋の色種の演奏聞いたよ、僕はとっても良かったと思う、よくやっていたよ、と。これから僕の仕事もちょっと手伝ってくれないかな、って言われたのがお付き合いの始まりでした。それで政太郎師の社中の一番末席で使ってもらうようになって、それからその社中に出入りしている人たちにもだんだん使われるようになって。またそれとは別に、勝国師がちょうど立て三味線をやり始めた頃、それもある日突然電話がかかってきて、君、ちょっと手伝ってもらえないかな、と。それから勝国社中の末席でずいぶん使ってもらって、勉強させてもらいました。そのへんが、よその流儀との出始めですよね。で、まあ仕事に行けばまたいろんな人に巡り合って…。

そうやってどんどん仕事が広がっていくわけですね。けっこう順風満帆という感じですか。

 まあ、そうは見えるんだけど、僕自身は大変で…。例えば、政太郎師の社中へ行って、曲目はあれでこれでって、あ、鷺娘なら知っているから大丈夫だと思って弾いたら、まあ最初から終わりまで手が何十箇所も違って、鷺娘ったって手も足も出ないんだよね。

流儀が違うと同じ曲でもかなり違うんですか。

 違うね。はたまた勝国師の所へ行くと、同じ鷺娘がこれまた全然違って、手も足も出ない。手も足も出ないの連続がそこから十年ぐらい続いて、まあ三十代前半までは辛かったですね。
 二十代の頃は覚えるのが間に合わなくて、よく明け方までやっていましたね。覚えている曲でさえ手が違うでしょ。それを手順をさらって出来るようにするのが間に合わなくて、やっているうちにだんだん空が白んできて、あー、もうだめだ、と。

 ある日、大阪で十四、五番弾かなければならない仕事があり、知らない曲が何曲もあって、必死で。喜撰を初めて弾いたときかな。覚えられなくて明け方の四時半までかかって、それで朝七時くらいの新幹線で行かなくてはならず、ほとんどカンテツの状態。東京駅の寒いプラットホームを三味線と着物の鞄を持って幽霊のように歩いていたら、向こうから同じように幽霊のように歩いてくる人がいて、それが同僚のMさんだったんだ。顔面蒼白で、自分が鏡に映っているのかと思った。なんか疲れてるねって言ったら、俺、カンテツなんだよ、って。何さらってた? 喜撰。ってそういうこともありましたよ。

大学時代には百曲弾けるようになっていたということですが、それでも?

 大学卒業までにとりあえず百曲はマスターしようと必死にがんばって、まあ達成したんですよ。でも、そんなのは全然なんにも通用しない。百曲ぐらい知っていたからって、それが何なの、って。知っている曲だって満足に弾けないしね。もうどうにもならなかったね
 舞台の端っこに座って、「君、どこそこの替え手弾いてくれ」って言われて、「弾けません」「それもだめです」って。怒られてね。知らなきゃ知らないでオクターブ上で弾くとか、間を埋めてスチスッチンとやるとか、それぐらいの知恵はないのか、と。今にして思えばなるほどそうだなとつくづくそう思うけれど、当時は若いから考えが甘いというか、習ったことしか出来ないわけ。知らなかったらそれらしい替え手をとりあえずやってみるとか、そういう工夫がないのね。

でも、そんな急には出来ないですよね。

 出来ない。出来ないし、そんなことやってしくじってメチャメチャにしたらどうしようと不安のほうが先に立つから、どうしても怖いからリタイヤしたくなっちゃうんだよね。

 ともかく、徹夜徹夜で辛かった。究極の選択があって、今夜辛いのをがんばるか、疲れたから休んで明日早起きしてやるか、という。早起きするつもりで挫折したらどうしようとか。でもとことん疲れると頭が飽和状態になるから、この頭でやっても入らないってあるよね。それなら疲れた頭を休めて朝やったほうが、とか。新幹線の中でなんとかしよう、とか国立劇場に向かう車の中でなんとかしようとかって、そんなことの連続でしたよ。ほとんど二十代は綱渡りですね。辛かったよね。二度と二十代には戻りたくないよね。

三十代になると慣れてくるんでしょうか。

 そうですね。例えば舞踊の会、長唄のおさらい会、新曲の録音、現代もの、歌舞伎の仕事、NHKの放送、各種いろいろありますが、だいたい三十代の前半で、どこの流儀の誰とやっても、どんな種類の仕事をしても、まあなんとかくっついていけるところまではいけたんじゃないかなと自分では思っているけど。

今は辛さはないですか。

いやあ、四十歳過ぎたって、今でも続いていますよ。前ほど切羽詰らなくて済んでるってだけですよね。でも、あのとき頑張らなかったら、今はないと思う。あの頃苦しい思いをしてやっていたから、今日曲がりなりにもなんとかなってるんで。だから、今出立ての二十代の人たちの苦労はよーく分かるし、三十代前半の人が慣れてきたなというのも分かる。みんな通る道だから。

皆通る道でも、挫折した人はいないのでしょうか。

 そりゃいっぱいいますよ。寝ないで頑張るとか、何日も徹夜するとか、俺にはとてもじゃないけれどできない、そんなことしたら体を壊す、仮に頑張っても本番でくたびれ果てて成果が出ないから、と挫折していった人はたくさんいます。そういう人は、じゃあ君、今度これ弾いてごらんと言われたとき、僕は出来ません、って逃げてたよね。そういうときに、じゃあ祐介君、代わりにやってと言われて、僕も出来るわけじゃないけれど、受けて立つしかないか、と。やらせてもらえるときに、仮に結果が伴わないのが見えていたとしても、やらせてください、一生懸命やります、とやりましたけどね。逃げる、ってことはしなかったな。出来ません、ということは言いたくなかったし、とにかくやってみます、と。

 今、自分が先輩の立場になってみると、若い人にこれやってごらん、って言ったときに、多分無理だろうな、こんなもの一晩で覚えられるはずがないということは分かっているんだけど、どれくらいやってくるのかちょっと試してみようかな、というのがあるんですね。で、なかなか根性があるとか、根性なしだなとか分かるようになりましたよね。今思うと、そうやってきっと先輩に試されていたんだろうな。

もうやめたい、と思うことはありませんでした?

 やめたいとは思わなかったね。とにかくかじりついて何とかやろうと思っていました。ちょうどいろんな人に使ってもらえるようになってきたから、このチャンスを逃さず、何とか次につなげたい、一回頼まれたらもう一回頼まれるように頑張ろうって。あいつはダメだ使えないと言われないように頑張ろうとは思いましたね。

その頑張りの原動力は何なんでしょう。負けず嫌い?

 それと僕の場合は、仲間が偉い先生の息子さんとかが多かったから…。彼らは何とか先生のお坊ちゃんってどの楽屋へ行っても華々しくて、一方僕はお茶くみや鞄持ちで、あの子誰?という存在だったから。決して腕では負けるとは思わなかったけれど、彼らが華やかに舞台で活躍している頃、僕は相変わらず鞄持ちでお茶入れて灰皿捨ててっていうのがずっと続いていたから、だからせっかく使ってもらえるんだから頑張らない手はない、と。一つ仕事をもらうとまた頼んでもらえるよう頑張ろうって思いました。

やはり後ろ盾がないと実力だけでやっていかなくちゃいけないということですよね。

 それは最初から見えていたから。誰かの顔で僕を使ってくれるというのは絶対ありえないわけだから。先輩が使ってくれて、結構良くやってくれたなと思ってくれなきゃ次につながらないでしょ。つまり生きていけないってことだから。何とか三味線で生活できるように頑張らなきゃってありましたよね。必死だからできたんだよね。

 幸せだと思うのは、やりがいのある仕事ですよ。こんなやりがいのある仕事はないと思う。舞台でふりかかる恐怖感に打ち勝って、最後まで弾き終えるという、仮にうまくいかなかったとしても、いつも挑戦だから。百分の一秒にかけているオリンピックの選手がその百分の一秒を詰めるために厳しいトレーニングをやるでしょ。どれだけ辛い思いをしなくちゃならないか。それと同じように、たった一日の舞台のために訓練するからね。やりがいがありすぎて辛いんだけど、やりがいがあること自体は幸せですよね。こんな仕事して何になるんだとは絶対思わないから。

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