稀音家祐介インタビューA
早くプロになりたいと思っていました
中学三年から高校生時代、三郎助先生の鞄持ちをしていたということですが、具体的には、どういうことをなさっていたんですか。
まず、先生の家へ行って一緒に仕事場に行く、いわゆる「お付き」ですよね。ドアを開けてあげる、タクシーを拾って先生を乗せる、どんな種類のお茶が好きなのか予め用意しておくとか、楽屋で着替えを手伝ったり袴を畳んだり、草履を揃えたり、そんな諸々の事をやっていました。
実際のお稽古はどんなふうでした?
お稽古日には稽古場へ行っていました。先生のお稽古は、三回唄っておしまい。三回やって分からなかったら放っておかれる。手取り足取りは教えてくれなかったね。で、今日は蕎麦の食い方を教えてやる、と始まる。まず、板わさを頼んで一杯呑め、カツどんとか言うんじゃないぞ、最後にざる蕎麦を一杯頼め、そんなふう。またあるときはお使いに行って来い、と。上野の道明に羽織紐を頼んであるから取って来い。持って帰ると、今日は羽織の紐のことを教えてやると言って、房の大きすぎるのは冴えないから短く切る、こういうのがいいと薀蓄が始まる。そして最後にはおまえに一つやる、と下さる。それは未だに使っています。
はたまた今度は草履屋へ行って来い、と。取って来ると草履に関する薀蓄が始まって、またおまえに一つやる、と下さる。そんな調子で、着物の着方、帯の締め方、実践的なことをいろいろ教わりました。また、お呼ばれしたら車で帰れ、次の角で降りてもいいから、人に夢を売る商売なんだからかっこ悪いことはするな、と。芸人はかくあるべし、ということを一番教わったと思います。
今になって思うと、三味線弾きにとって技術的経験的なことはもとより何を持ってよしとするか美しいとするか、そういったセンスが必要だということを痛感します。三郎助先生は唄の先生だけれど、それ以上に、芸人としてのセンス、そしてそれが芸にも出るということを教わったと感謝しています。僕もこういう先生になりたいと思いました。
高校生といえば遊びたい盛りだと思うのですが、ほとんど邦楽一色の世界だったんでしょうか。
けっこう一生懸命やっていましたね。三味線は六節治先生と六多郎先生、唄は三郎助先生と三つのお稽古の梯子でしたから、追いまくられていました。今度までにあそこまで覚えていかなくちゃと。やらなきゃいけないことが山ほどあった。三味線は毎日必ず弾いていました。上手くなりたいと思ったし、早く黒い着物を着て、舞台の端っこでいいから出たいといつも思っていました。
早くプロになりたいと。
はい。先生はどんな曲もすぐ弾けて、こういうふうにならないとプロにはなれないんだなぁと思いました。早くそうなりたいと。替手あり上調子あり、唄いながら弾きながら、とてつもなく先は遠いなと毎日絶望的でした。でも今思えばその頃はまだよかった。大学を卒業して、実際仕事をするようになってから、もっと辛かった。全然間に合わなくて。芸大に入って出るまでに、とにかく百曲レパートリーにしようと。それは達成したんだけど、それで世の中出たらそんなもんじゃまるっきり通用しない、というのが三、四ヶ月で分かりました。
まだまだ修行が続くわけですね。
三十歳を過ぎてから初代日吉小三八先生に師事しました。唄の二代目小三八さんや小間蔵さんと二人で先生の前で一曲やると、二百箇所ぐらい直される。二時間ぐらいして終わって、足は痛いし汗だくになっている。すると、じゃあ足を直してもう一度最初からと言われる。これは辛かったですね。いつまでたってもお稽古が終わらない。そういう三味線を弾くからこういう唄になる、唄がまずいからそういう三味線になる、と両方とも厳しくやられました。今までは長唄というものを三味線の側から見ていたのが、唄の立場から見ることになって、そこで初めて長唄というのはこういうものなのかと全体像が分かる。それはすごい貴重な体験でした。また、先生は博学で万巻の書を読んでいられて、長唄の音楽的教養も教わりました。小三八先生の稽古はとても勉強になりました。
どの先生も厳しい先生で、あの時あれを教わっていなかったら、今日の演奏はできなかったといつも思います。先生方には本当に感謝しています。